黒澤明の子供と孫も凄い人?経歴や映画が評価される理由とは?

現在、映画監督は世界中に溢れるほどいます。

日本だけでも相当な数の映画監督がいて、有名監督以外は名前も分からないのが現状です。

そんな中で、あまり映画を知らない人でも一度は耳にした事のある監督名が「クロサワ」だと思います。

黒澤明監督は、今活躍する世界中の映画監督に多大な影響を与えたすごい人です!

一体どのようにして黒澤監督はここまでの巨匠となったのでしょう?

また、その子供と孫もやはりすごい才能があるのでしょうか?

ちょっと気になったので調べてみました!

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黒澤明ってどんな人?

プロフィール

生年月日   1910年3月23日
出身地    東京都・品川区
身長     182cm
没年月日   1998年9月6日(88歳)

略歴

1943年 「姿三四郎」で監督デビュー 山中貞雄賞を受賞
1947年 「素晴らしき日曜日」で毎日映画コンクール監督賞を受賞
1950年 「羅生門」でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞
1952年 「生きる」でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞
1954年 「七人の侍」でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞
1958年 「蜘蛛巣城」でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞
1975年 「デルス・ウザーラ」でモスクワ映画祭金賞を受賞
1976年 文化功労者として顕彰される
1980年 「影武者」でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞
1985年 映画業界の人物としては初の文化勲章を受章
1990年 アカデミー名誉賞を受賞
1998年 9月6日死去(88歳) 国民栄誉賞授与

黒澤明のすごい所とは?

黒澤監督のすごい所は、後の巨匠と呼ばれる監督達に多大な影響を与えた、独自のカメラワークや映画作りのノウハウではないかと思います。

その斬新なカメラワークや、鋭い映像感覚は他の映画監督からもマネされるほどで、脚本がほぼそのままSFに移行しただけの作品まであります。

また、あからさまなパクリは無いにしても、黒澤作品から1シーンを盗んだような映画は数えきれない程存在します。

特に初期に製作した「羅生門」「七人の侍」「隠し砦の三悪人」などからの影響が数多く見受けられます。

それだけ黒澤監督の映像感覚は、最先端を走っていたと言う事ですね。

映画への徹底したこだわり

黒澤監督のすごいエピソードとして、映画作りに対して異常なまでの徹底ぶりが挙げられます。

まず俳優には、自然な演技が出るまで何度もリハーサルをやらせる事が有名で、本読みの時ですら衣装を着せたと言う逸話もあります。

特にこだわったのが美術で、道具は細部まで綿密に作られ、カメラに映らない所まで徹底的にこだわって作られています。

例えば、映る事の無い棚の引き出しの中まで漆が塗られたり、門に使用する瓦に「延暦十七年」と彫って4000枚も焼いたりなど、決して見えない所にも手を抜かずに撮影する徹底ぶりでした。

あと、必要だと感じたセットはどんな大きな物でも建てさせたり、撮影に使う馬を何十頭も丸ごと買い取って調教したり、ロケ現場に立っていた民家の二階部分が邪魔なので、住民にお願いして撮影の時だけ二階部分を取り除かせて貰ったりと、ものすごいこだわりようです!

普通の人はそこまでやらないか、出来ないと思いますが、黒澤監督はこのようなこだわりで映画を作り、一気に巨匠へと上りつめました。

斬新な映像感覚と優れた脚本、映画に対する徹底したこだわりがあったからこそ、巨匠黒澤明が誕生した訳ですね!

そんな黒澤監督は、一体どのようにして映画と出会ったのでしょう?

黒澤明と映画の出会い

黒澤監督と映画の出会いは、6歳の頃に映画は「教育上好ましい」と言う考えを持つ父親に連れられて映画館へ観に行ったのが最初です。

特に、日本映画ではなく西部劇などの洋画を好んで観ていました。
当然この時点では、まだただの映画好きの少年です。

そして、小学生だった黒澤監督は気が弱く、泣き虫でいじめられっ子だったそうです。

しかし、小学3年生の時、図画の時間に描いた絵が担任に褒められた事がきっかけで絵が好きになり、同時に学校の成績も伸びるようになります。

自分に自信が持てるようになったせいか、やがてイジメもなくなり、その後学級長にもなりました。

後に黒澤監督は、当時の担任を「生涯の恩師」と語っています。

そして、絵が好きになった事で中学校では、洋画研究所に通ったり、ロシア文学を読み耽ったことで、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けました。

中学を卒業する頃には画家になることを志していて、東京芸術大学を受験するも残念ながら落ちてしまいます。

しかし、画家の道を諦めきれずに画学校に通って洋画を猛勉強し、1928年に出展した二科展に「静物」が初入選します。

その後、日本プロレタリア美術家同盟に参加して、洋画家・岡本唐貴に絵を教わったりしますが、1936年に画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後の東宝)に入社する事となります。

このように、若き日の黒澤監督は最初は画家を志していました。

しかし、挫折したのか映画製作に興味が移ったのかは分かりませんが、26歳で映画製作会社の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して入社します。

ここから黒澤監督と映画製作との長い関係が始まります!

黒澤明の失敗

黒澤監督は初期の作品が海外でも大ヒットして、1960年代後半にはすでに巨匠のような存在でした。

なので、アメリカのハリウッドからも監督のオファーが来るようになります。

しかし、黒澤監督のやり方である、入念なリハーサルや徹底した細部のこだわりなどがアメリカ側には理解されず、作品が頓挫したり監督を解雇される事もありました。

また、黒澤映画は莫大な費用がかかる事から、制作会社とよく揉める事が多く、
1965年の「赤ひげ」も大幅な予算超過となり、これを最後に東宝からも専属契約を解除されています。

その後は、映画製作の資金を自宅を抵当に入れて確保しながら製作しますが、商業的に失敗してその後自殺未遂を起こしたりしています。

確かに、自分のやり方にこだわりを持ってやる事は大切かも知れません。

しかし、予算には限りがありますし、誰かと組んでやるなら相手のやり方も尊重しつつ、その範囲で最高のものを作る事こそが本当のプロのように思います。

そういう意味では、黒澤監督は映画監督と言うより「芸術家」に近い存在だったのかも知れません。

あくまでも、自分のこだわりの映像を撮る事だけに興味があり、そのこだわりの映像を撮る為には妥協を許さず、全ての情熱を注いでしまう。

しかし、莫大な費用がかかる映画の場合、「失敗した」では済まされない状況になりますし、いくら芸術的に優れていても、観客がお金を払って観てくれない事には話になりません。

「こだわり」はものすごいパワーを生み出しますが、それが周りに受け入れられなければ、多大な損害を自分にも周りにももたらす事になります。

晩年は、その「こだわり」が仇となったのか、「乱」以降の作品は今一つヒットせず、興行的にも失敗に終わっています。

黒澤監督の子供と孫もすごい人?

黒澤監督には2人子供がいます。

黒澤監督の長男

1945年生まれの長男、黒澤久雄さんは映画プロデューサーとして「乱」以降は全て黒澤作品に携わっています。

また、タレントとして活動していた時期もあり、クイズ番組などで活躍しました。

そして、1980年にタレントの林寛子と結婚して、1男2女を儲けましたが2003年に離婚しています。

長女の黒澤優さんは、女優として活動してましたが、2002年にロックバンド・SOPHIAのボーカリスト・松岡充と結婚して引退しています。

次女の黒澤萌さんは歌手として活動されてたみたいですが、現在は不明です。

黒澤監督の長女

そして、1954年生まれの黒澤監督の長女、黒澤和子さんは映画衣裳デザイナーとして活躍されてます。

1988年から父親の進言で映画界に入り、「夢」から黒澤組の衣裳を担当しています。

現在は他の映画作品も数多く手掛けていて、山田洋次監督や是枝裕和監督、北野武監督などの有名映画にも衣装を提供しています。

そして、黒澤和子さんには息子が2人いて、長男は俳優の加藤隆之さんです。

「リング〜最終章〜」でデビューして、黒澤映画「雨あがる」の小姓役として映画初出演をしています。

また、次男の加藤秀之さんは現在画家になっています。

動物の絵が得意なようで、時々個展なども開いてるみたいですね。

こう思うと、やはり黒澤監督の子供も孫もしっかり芸術家肌の遺伝子は受け継いでいて、さすが「世界のクロサワ」だと思います!

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