日本では根強い人気の将棋。
プロの棋士になるには相当な実力がいりますし、プロになって勝ち続けるにはさらなる能力が必要です。
そんな厳しいプロ棋士に、難病に侵されながらも、たった2年11か月と言うスピードでプロになったすごい棋士が村山聖さんです。
この早さでのプロ昇格は、あの羽生さんや谷川さんをも上回ります!
そんな村山さんは一体どんな人生を歩んで来たのか?
出来るだけ解りやすく紹介していきます!
目次
村山聖ってどんな人?
プロフィール
生年月日 1969年6月15日
出身地 広島県・安芸郡府中町
血液型 AB型
没年月日 1998年8月8日
略歴
1979年 10歳でアマチュア四段を認定される
1980年 中国こども名人戦で4大会連続優勝
1982年 森信雄に弟子入りする
1983年 5級で奨励会に入会する
1986年 プロ棋士デビュー
1990年 第13回若獅子戦決勝で棋戦初優勝
1995年 A級八段に昇格
1996年 第30回早指し将棋選手権で優勝
1997年 進行性膀胱癌が見つかり、8時間半の大手術を行う
1998年 8月8日29歳で死去
村山聖のすごい所とは?
村山聖さんのすごい所は、難病に蝕まれた体にもかかわらず、集中力を必要とする将棋の世界で活躍し続けた事だと思います。
村山聖さんの目標は、他の多くの棋士と同じく「名人」でしたが、結局タイトルは一度も獲得する事無く世を去りました。
しかし、それは体調が悪い日は対局に出れず、不戦敗になったりする事も多かったせいもあると思います。
実力的には自力でA級8段まで上りつめていますし、十分にタイトルを狙える力はありました。
その証拠に、将棋界で初の7冠を達成して、天才と呼ばれる羽生善治さんとの通算成績は6勝7敗とほぼ互角です。
真剣勝負の場で、羽生さんに勝つのはある意味至難の技だと思いますが、それを13戦中6回もやってる事から村山聖さんのレベルの高さが分かります。
そのライバルとも言える羽生さんと最後に対局したのは、1997年のNHK杯決勝戦でした。
その前の対局では村山聖さんが勝っていて、3連敗の後の3連勝で勢いに乗っていました。
序盤は村山聖さん有利で進んでいましたが、最後に秒読みに追われてミスしてしまい残念ながら優勝を逃してしまいます。
羽生さんも後に村山聖さんの事を、「生きていたら、同世代の棋士と同じくタイトル戦で実績を残していただろう」と語っているように、非常に優れた棋士でした。
歴史に「もし?」はありませんが、もし村山聖さんが病気じゃ無く今も生きていたら、一体将棋界はどうなっていたのか?ちょっと気になる所ではあります。
そんな村山聖さんが将棋を始めるキッカケとは、一体何だったのでしょうか?
村山聖と将棋の出会いとは?
村山聖さんと将棋の出会いは、5歳の時に発覚した難病「ネフローゼ」の治療で入院している時に、父親から教わったのが最初でした。
「ネフローゼ」は、腎臓の疾患で若年層(特に幼少期では男子)に多く発症する難病で、症状は強度の全身倦怠感、皮膚の蒼白化や無気力、食欲不振などで相当辛い病気です。
そんな難病にかかりながらも村山少年は、将棋を覚えてからは、体に障ると何度注意しても聞かないで、朝から晩まで夢中になって指し続けました。
そして、10歳でアマチュア4段に認定されるほど上達すると、「中国こども名人戦」では4大会連続優勝するなど、目に見えて実力を発揮するようになります。
その後、中学1年でプロ棋士になる事を決意して、森信雄7段の弟子となります。何にしてもこの森さんとの出会いが、村山聖さんの大きな転機となりました。
森さんは後に「平成の名門」と言われる程、弟子入り希望者が多い事で有名になる人気の棋士です。森さんは最初に村山聖さんを見て、「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない。」と言う印象を受け、弟子入りを快諾。
病気である村山聖さんと同居し、親身になって支え続けました。
村山聖さんは病気のせいでしょっちゅう熱を出していましたが、師匠の森さんが必死で世話をして、時には村山聖さんのお使いまですると言う、どちらが師匠か分からない生活を送っています・・・。
やはりこういう人情身のある所が、弟子入り希望者が殺到する理由なのかも知れません。
そんな二人三脚での生活の甲斐あって、1983年にプロの登竜門でもある奨励会に入会し、まずか2年11ヶ月でプロ棋士になります。
村山聖の人物像
村山聖さんは病気のせいと、「髪や爪にも命がある」と言う独自の考えの為、切る事を好まず独特の風貌をしていて、周りからは「怪童丸」や「肉丸」などと呼ばれていました。
その為、よく「不潔」と言われる事が多く、悩んだりした時期もありましたが、師匠の森さんに「将棋が強くなったら、誰も言わなくなる」と励まされて将棋に精進します。
しかし、対局の画像などを見るとかなりキレイにされているので、その後は自分で意識して身なりを整えるようにしたのかも知れません。
また、村山聖さんは少女マンガが大好きで、家に3000冊も保有して、必ず同じものを3冊購入して、読む用、鑑賞用、保管用に分けると言うこだわりを持っていました。
そして、少女マンガ好きとは思えない程、ライバル棋士に対する闘争心は激しく、盤外でも敵意をむき出しにする傾向にありましたが、羽生さんに対してだけは特別の敬意を払っていたそうです。
やはり羽生さんには他の棋士には無い、何か特別な思いがあったのかも知れません。
村山聖の死因
そんな村山聖さんは、1997年の春に進行性膀胱癌が見つかり8時間半に及ぶ大手術を行いました。
しかし、翌1998年に癌の再発・転移が見つかり「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表します。
村山聖さんは何としてでも生きる為に休む決断をしましたが、治療の甲斐なく1998年8月8日、ガンが原因で29歳と言う若さで世を去りました。
薄れていく意識の中で言った「……2七銀」が、最後の言葉であったと言われています。
そして、本人の希望により、葬儀終了後にその死が伝えられた事で、将棋界に大きな衝撃を与えました。
日本将棋連盟はその功績を讃えて、逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈しています。
生涯戦績
356勝201敗(うち不戦敗12) 勝率0.639
現在、村山聖さんの壮絶な人生は映画化されかなりの評判を呼びました。
この作品は将棋が分らない人でも、物語にぐいぐい引き込まれていく要素を持っています。
夢を追いかけた一人の男の壮絶な人生を通して、「生きる事の意味」を再認識させてくれる作品でもあるので、見てない方はおすすめですよ!
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終わりに
もし、現在も村山聖さんが生きていたら、羽生善治さんと同じくらいの活躍をしていたのではないでしょうか。
29歳と言う年齢での死はあまりにも早すぎますが、それでもやりたい事を全力でやってきて結果も残してるので、本人的にはやり切った感はあるかも知れません。
でも、もっと村山聖さんの活躍は見てみたかったと思うだけに、非常に残念です・・・。
コメント
7回中六回との記述がありますが、6勝7敗なので13回中六回では?
ご指摘ありがとうございました、訂正させてもらいます!