萩本欽一の兄弟や両親もすごい人?全盛期のギャラ&年収と凄すぎる経歴とは!

現在も現役バリバリでお笑いを追求している萩本欽一さん!

これまでに「視聴率100%男」と言われ、人気番組を多数持つなど芸能界の第一線で活躍してきた経歴を持つすごい芸人です!

また、最近では突然大学へ入学して世間を驚かせ、さらに卒業せずに「自主退学」するなどの話題も振りまいています。

そんなお笑い界の巨人でもある萩本欽一さんの兄弟や両親はどんな人なのでしょう?

また、凄すぎる経歴や全盛期のギャラは一体どれくらいだったのでしょうか?

ちょっと気になったので調べてみました!

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萩本欽一の兄弟や親族もすごい人!

萩本欽一さんの兄弟を調べると、分かる範囲で言うと兄と弟がいるので3兄弟になります。

ただ、兄は1927年生まれなので萩本欽一さんとは14歳も年が離れてる為、ひょっとするとその間にまだ兄弟がいる可能性もあります。

そして、萩本欽一さんの兄は萩本功(はぎもといさお)さんと言って、現在「プラスロン化粧品」と言う会社の会長をしています。

また、その娘であるプラスロン明世(本名:河嶋明世)さんが、現在「プラスロン化粧品」の社長と言う事です。

なので、萩本欽一さんの「姪」にあたる人物が会社の社長として成功している事になります。

ちなみに「プラスロン化粧品」と言うのは、社長のプラスロン明世さんが思春期にひどいニキビに悩み、父親が開発した化粧品で完治した事から、それを全国に広める為に作った会社と言う事です。

そして、萩本欽一さんの弟は萩本悦久(はぎもとよしひさ)さんで、1943年生まれなので2歳年下の弟と言う事になります。

職業は「元東京創価小学校校長」だったと言う事で、教育者として成功されていたと言うのが分かります。

ちなみに東京創価小学校の卒業生には、お笑い芸人の「長井秀和」さんが卒業していたと言う事もあり、ひょっとすると萩本欽一さんの弟が教えていた可能性もあるかも知れません。

このように、萩本欽一さんの兄弟や親族も商売や教育の分野で成功されています。

特に、萩本欽一さんの兄や姪が商売で成功しているのは父親の影響があるのかも知れません。

萩本欽一の両親はお金持ちだった!しかし複雑な関係・・・

萩本欽一さんの両親は共に香川県小豆島出身で、父親の実家は「饅頭屋」だったと言う事です。

また、母親の実家はかなりのお金持ちでお嬢様育ちのせいか、結婚後は「洗濯をする」と言う概念が無く、いつも洗濯物が溜まっているような有様だったと言います。

そして、そんな両親が東京都台東区東上野の長屋へ住んで生活を始めますが、父親が始めた「カメラ製造販売業」が成功した為、埼玉県浦和市に家を買い引っ越す事になります。

なので、萩本欽一さんの幼少期は父親が事業で成功した事もあり、かなり裕福な家庭環境で育ちました。

ただ、父親は女癖が悪かったようで埼玉県に引っ越すも都内に「妾」を囲うようになり、埼玉県の家には週末しか帰らなくなったと言います。

しかし、萩本欽一さんの母親がそれを「男の甲斐性」だと容認していた為、家庭でのトラブルは無く、むしろ母親に「妾の所へ遊びに行ってこい」とまで言われたそうです。

なので、萩本欽一さんは父親と妾と3人でよく浅草などへ出かけたと言い、そこでたくさんの芸人を生で見た事で、芸能界に興味を持つようになりました。

そう思うと、萩本欽一さんの幼少期は今ではあり得ないような複雑な家庭環境なのですが、ある意味そういう環境だったからこそ、今に繋がってるとも言えます。

と言うのも、父親に妾が居なかったり、母親も「妾の所へ遊びに行ってこい」と言うような性格で無かったら、萩本欽一さんが浅草へ行く事も無く芸に興味を持つ事も無かったかも知れません。

ただ、そういった幸せな状況が続いたのも萩本欽一さんが小学5年生まででした・・・

父親の事業が失敗し一転して貧乏生活へ

萩本欽一さんが小学校5年生の時に、これまでうまく行っていた「カメラ製造販売業」が傾き始め、色々手を尽くすも会社は倒産してしまいました。

このせいで埼玉県の持ち家を失い、再び最初に住んでいた東京都台東区東上野の長屋へ居を移し、そこから極貧生活が始まります。

さらに、そこにも住めなくなったのか、萩本欽一さんが中学3年生の時には文京区丸山町に引っ越し、高校生になった時にはとうとう「夜逃げ」するハメとなりました。

その後、両親は地元の香川県へ帰ってしまい、東京に残った萩本欽一さんとはそのまま離散する形となります。

父親はその後、香川県で萩本欽一さんの兄が開いたカメラ店に勤務して過ごしたと言われているので、恐らく両親と一緒に帰った兄弟と東京に残った兄弟に分かれたのでしょう。

そういう事情もあり、萩本欽一さんは高校在学中から芸人になる為に色んな劇場を回るなど、自分の身の振り方を自らの手で切り開いて行きました。

萩本欽一の全盛期のギャラ&年収はどれくらい?

お金

萩本欽一さんの全盛期のギャラが一体どれくらいだったのか気になりますよね。

色々調べてみると、当然ですが当時の具体的なギャラの金額などは一切出ていませんでした。

しかし、2016年に小堺一幾さんが出演した番組内で、全盛期の萩本欽一さんのギャラに関する貴重なコメントをしています。

それによると、萩本欽一さんが「視聴率100%男」と呼ばれていた全盛期に同席した喫茶店で、萩本欽一さんの給料袋がテーブルに立っているのを見たそうです。

そして、萩本欽一さんに「お前もこれくらい稼げ!」と檄を飛ばされ、元気よく「はい!」と答えたと話していました。

さらに、萩本欽一さんは小堺一幾さんに向かって信じられない事を言い放ちます。

「言っておくけど、これはお札で立ってるんじゃないからな」

実は、その給料袋に入っていたのはお札では無く「小切手」だったそうです。

通常、100万円で厚さが1㎝と言われてるので、お札だと安定して立たせるなら最低でも300万円くらいはいるでしょう。

なので、小堺一幾さんは最初はお札と思っていたので、300万円くらいの給料と考えていたはずです。

しかし、立ってるのが全て「小切手」と言う事なので、仮に小切手が1枚100万円として封筒が立つのが300枚とすると、100万円×300で3億円と言う事になります。

また、「給料袋」と言う事なので恐らくこれが月収だったのではないでしょうか。

もちろん、ずっと同じ金額と言う事は無いと思いますが、だいたいこれくらい稼いでいたとすると、年収的には30億円を超える感じになりますね・・・・

正直、一般常識的に考えるとあり得ない数字ですが、ただ漫才ブームの時に人気絶頂だった島田洋七さんの最高月収が1億円で、その年の年収は8億円だったとの記述があります。

それを考えると、何本も人気冠番組を持っていた萩本欽一さんの全盛期なら、年収が30億円くらいあっても不思議では無いはずです。

また、近年でも2007年に24時間テレビのチャリティーマラソンランナーになりましたが、その時のギャラが2,000万円だったと言われています。

これは、マラソンランナーを引き受けた際に理由を聞かれた所、「だってお金がいいんだもん」と指を2本立てたそうです。

通常のランナーのギャラがだいたい500万円くらいと言われてるだけに、萩本欽一さんクラスで200万円はあり得ないので、やはり2,000万円は真実味があります。

そして、芸人は売れてる時は信じられないような金額を稼げますが、萩本欽一さんも1985年には『欽ちゃんの仮装大賞』以外、全てのレギュラー番組から降板しています。

なので、それ以後の年収はそれほど多くはないはずです。

とは言え、萩本欽一さんは書籍も数多く出して売れてるようなので、今はテレビに出なくても印税などで十分な収入があるのかも知れません。

特に2011年に出版されたダメなときほど運はたまる は、自身も最初の頃に「才能が無いから辞めろ」と言われるなど、ダメな時期を過ごして成功しただけに説得力があります。

また、口コミでも「本を読んで考えが変わった」など、気持ちが落ち込んでる時に読むとものすごく前向きになれる「良書」として人気です!

ぜひ、萩本欽一さんの前向きな思考を身に着けて「成功」へのキッカケとしてみてはいかがでしょうか。

萩本欽一の凄すぎる経歴!欽ちゃんも最初は才能が無かった!

萩本欽一さんは高校生の時に、両親が事業に失敗して香川県へ帰ってしまった事で、そこからは自力で生きて行かなければなりませんでした。

また、中学生の時にはすでに芸人を目指していて、卒業と同時に当時の人気芸人に弟子入りを志願しますが、「せめて高校は出ておいで」と断られています。

なので、高校を卒業すると再び同じ所へ弟子入りに行きますが、寸前で近隣の「東洋劇場」への入団に変えて、そこで研究生となりコメディアンの卵になりました。

そして、そこから萩本欽一さんのコメディアンとしての修行が始まりますが、当初は全然うまく行かず、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」とまで言われています。

演出家にそう言われ、自信を無くした萩本欽一さんは本当に辞めようとしますが、先輩芸人が演出家を説得してくれて、何とか芸人を続けられるようになります。

そして、後に演出家から聞いた話では、その先輩芸人は

「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」

と演出家に言っていたと聞かされます。

この事をみると、若い頃の萩本欽一さんは先輩芸人から見ても「才能がない」と思えるほどダメな芸人だったと言えます。

しかし、応援して励ましてくれる先輩芸人がいた事で、萩本欽一さんも奮起して誰もいない劇場で大声を出す練習をしたり、先輩芸人の芸のマネをするなど努力して才能を伸ばしていきました。

ただ、そうして修行をしている途中で父親の家が火事になった事を知り、父親を助ける為に今度は家の事情でコメディアンを本気で辞めようとします。

しかし、話を聞いた先輩芸人が劇場の関係者からカンパを募り60万円を集めて萩本欽一さんに手渡したそうです。

これにはさすがに萩本欽一さんも号泣して感謝し、その後もコメディアンを続ける決意をしました。

なので、萩本欽一さんは芸人を目指してから何度か途中で辞める状況になりますが、人情のある先輩芸人に救われる形でその後の芸人人生を歩むようになります。

萩本欽一と坂上二郎との出会い

萩本欽一さんは、最初「東洋劇場」で修業をし上達した頃に、同じ系列の劇場である「浅草フランス座」へ出向するようになります。

ただ、ここのメインは「ストリップ」で、その合間にコントを披露すると言う内容の仕事でした。

そして、この「浅草フランス座」で先に専属コメディアンと活動していたのが、後の相方になる「坂上二郎」さんです。

出会った頃は、一緒に劇場を盛り上げる「仲間」と言うよりは完全な「ライバル関係」で、お互いが自分だけウケようとするなど競い合いの毎日でした。

さらに、年齢も坂上二郎さんの方が上だった事もあり、萩本欽一さんによる坂上二郎さんの印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったそうです。

しかし、後にコンビを組む相方となり終生の友にもなります。

その後、萩本欽一さんは所属していた東洋劇場を辞める事になり、新たに自分で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げするなど、どんどん独自のお笑いを追求していきました。

さらに、その頃のちに所属事務所の社長となる浅井良二氏(浅井企画代表)と出会い、舞台だけでなくタレント活動も始めるようになります。

しかし、せっかく決まったコマーシャルの仕事で、緊張したのか21回ものNGを連発してしまい降板させられてしまいました。

この事がショックで、萩本欽一さんはテレビ業界の進出を諦め、旗揚げした「劇団浅草新喜劇」も解散し、地方のホテルの営業から再起する機会を探る事となります。

すると、この時にたまたま「机」と言う一人コント思い付き、それを東京の劇場に売り込もうと帰京した所、すぐに坂上二郎さんから電話があり会う事になりました。

そして、その時に思い付いたコントのあらすじを坂上二郎さんに話すと、坂上二郎さんから

「そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは」

と提案されたのがキッカケで、1966年に最初は一回だけの舞台契約でコンビを結成する事になりました。

萩本欽一は「コント55号」結成から運命が変わった!

そして、早速「浅草松竹演芸場」へ自信のコント「机」を売り込み、最初は「前座」で上演できるようになったものの、お客さんの反応はいまいちでした。

なので、3日目に試しに役を入れ替えて演じてみたところ好評を博すようになり、5日目には正式に「香盤表」にも載る事となり、この時に支配人から「コント55号」と名付けられています。

このようにして、たちまち2人の名前が広まり、その後は日本興行界を代表する「日本劇場」にも出演するようにもなり、テレビ出演で一気に世間の認知度が上がりました。

中でも、最初に出演した日本教育テレビの「大正テレビ寄席」で、カメラが動きについて行けないほどの激しいコントが話題となり、一躍全国にその名が知られるようになります。

さらに、フジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」ではレギュラーとして出演し、そのすぐ後の「コント55号の世界は笑う」は早くも冠番組としてスタートしました。

これで「コント55号」は一躍「お茶の間の顔」となり、その後もどんどん冠番組がスタートして、時代の寵児となって行きます。

しかし、じゃんけんで負けた方が服を脱ぐと言う「野球拳」が当時一世を風靡した事で、「コント55号」は称賛されるもアンチも作るハメとなりました。

それは、女性もじゃんけんで負けたら服を脱ぐと言う内容の為、「子供に見せたくないハレンチな俗悪番組」としてPTAや主婦の槍玉に挙げられてしまいます。

この影響で、後に始まった新番組の視聴率が全て低視聴率になるなど、この時期から「コント55号」では無く、お互い単独の仕事へシフトチェンジして行きました。

ちなみに、萩本欽一さんはその後日本テレビ『スター誕生!』の初代司会者やコント番組の司会など、お笑い系のテレビで活躍していきます。

しかし、相方の坂上二郎さんはその後は「役者の仕事」を中心に活動し、2011年3月10日に脳梗塞で他界した事で、事実上コンビ活動にピリオドを打つ事になりました。

「視聴率100%男」と呼ばれる萩本欽一の凄さとは?

萩本欽一さんは、コンビでは無く単独の仕事では1971年から始まった『スター誕生!』の初代司会者が一番最初です。

ちなみに、『スター誕生!』のオファーが来た時に「オレは司会できないから、ちゃんと司会できる女の子を付けてくれ」と頼んだのが、アシスタントの走りなのだそうです。

さらに、日本のアイドルブームの先駆けとなった山口百恵さんを輩出したのが『スター誕生!』ですが、オーディション当初、山口百恵さんは不合格でした。

しかし、他の出演者のオーディションを後ろで身動き一つせず見ている姿を見た萩本欽一さんが、『百恵ちゃんは必ず大物になる』とプロダクションに訴えた所、合格になったそうです。

なので、もし萩本欽一さんが初代司会者で無かったら、ひょっとすると山口百恵さんは芸能界にデビューして無かった可能性もあるだけに、その当時から人を見る目は凄かったと言えます。

萩本欽一は素人いじりの天才!

萩本欽一さんはその後、『欽ちゃんのドンといってみよう!!』と言う、聴取者からのハガキ投稿がメインのラジオ番組で人気を獲得します。

さらに、それが好評だった為、フジテレビで『欽ちゃんのドンとやってみよう!』としてテレビ番組となり、さらなる人気を獲得して行きました。

そして、『オールスター家族対抗歌合戦』で見せたゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶりが大きな笑いを作り、「素人いじり」は萩本欽一さんの代名詞的な芸となって行きます。

特に、ロケ先で素人をいじりながら見事な話芸で笑わせたり、その後の番組でも素人の扱いに関しては天才的な能力を発揮して、独自の笑いを確立して行きました。

1980年代に入ると人気がピークに!

そして、1981年から始まった『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズが大ヒットし、視聴率は最高38.8%と国民的な番組となりました。

さらに、1976年から始まっていたホームコメディ『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)の最高視聴率は42%と、まさに国民のほとんどが見ていたと言っても過言ではないでしょう。

また、1982年に始まった『欽ちゃんの週刊欽曜日』『ぴったし カン・カン』『オールスター家族対抗歌合戦』など、その全てが視聴率30%を超えるヒットとなりました。

なので、これらの視聴率を足して当時は「視聴率100%男」と呼ばれるなど、まさに世の中は萩本欽一さん一色の状態でした。

しかし、その驚異的な人気もいつまでも続くものではありませんでした・・・。

萩本欽一が1985年にすべての番組から降板した理由とは?

萩本欽一さんは、1985年に充電期間としてこれまで持っていた全てのレギュラー番組から降板する事となります。

ただ、『欽ちゃんの仮装大賞』だけはプロデューサーに説得されて、例外として続行しました。

そして、降板した理由としては、ピーク時は「視聴率100%男」と言われるほどの高視聴率を記録していたものの、「それをキープする自信が無くなった」事が原因と言われています。

また、「視聴率が低下してるのを指摘されるようになった事に嫌気がさした」と後に本人が語っている事から、相当なプレッシャーがあったと推測できます。

ちなみに、視聴率が低下した理由は、当時『オレたちひょうきん族』など萩本欽一さんよりも若い世代の番組が台頭してきた事もあり、当時は「刺激のある笑い」が主流になりつつありました。

実際、萩本欽一さんが半年ほど休養して再びテレビ界へ戻った時は、どんな番組を作っても低視聴率に終わり、早々に打ち切りとなっています。

その変わり、ビートたけしさんが作る過激な番組が高視聴率をマークするなど、時代的にも完全に萩本欽一さんの笑いではありませんでした。

また、休養前はお笑いのビッグ3タモリさん、ビートたけしさん、萩本欽一さんでしたが、休養後は、萩本欽一さんの席は明石家さんまさんに変わっていました。

萩本欽一の休養後の芸能活動

萩本欽一さんは、休養後の1986年頃から何本かテレビ番組を立ち上げますが、ほとんどが半年ほどで打ち切りとなっています。

その後は、朝の連続テレビ小説のナレーションや地方のテレビ局でバラエティー番組をやったり、2010年代からはNHKやBSでの番組に多く出演しています。

特に最近は、2017年からNHKBSプレミアムで「欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)」と言うお笑い番組を毎年定期的に行い、往年の萩本欽一さんの笑いが再現されている番組として評判です。

そうして、現在も「お笑い」を続けてる萩本欽一さんは本当にすごい芸人と言えます。

萩本欽一の偉大な功績

萩本欽一さんは、笑いをお茶の間に届けてくれたのはもちろんですが、後に「欽ちゃんファミリー」と呼ばれる人達を多く輩出したのも偉大な功績と言えます。

中でも特に有名な人は、関根勤さん、小堺一幾さん、勝俣州和さん、風見しんごさんは番組終了後もバラエティー番組などで大活躍し、現在も第一線で活動しています。

なので、そうした優秀なコメディアンや役者を多数輩出している事も、萩本欽一さんがいかに優れた偉大なコメディアンなのかがよく分かります。

最近は大学へ進学し、再びお笑いに専念したいと言う事で中退しているので、これからどんなお笑いを見せてくれるのか非常に楽しみです。

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終わりに

萩本欽一さんは幼い頃は両親が事業で成功した事もあり裕福でしたが、その後は一気に転落して貧しい生活も体験しています。

しかし、芸人になる決意をして「才能がない」と言われながらも努力した事により、お笑い界の頂点にまで上り詰めました。

また、萩本欽一さんの兄弟や親族も会社の会長や社長として成功しているので、家系的に「努力家」が多いのかも知れません。

そして、萩本欽一さんは現在も現役のバリバリでお笑いを追求しているので、今後どのうよな活動をしていくのかに注目です!

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